2019年4月8日に多発性骨髄腫で亡くなった母は、
2018年の秋頃から状態がだいぶ悪くなり、
食欲が落ち、発熱や便失禁など起こるようになった。
多発性骨髄腫の診断から三年目、
抗がん剤治療に加えて緩和ケアが始まって
約1年のことだ。
病院は武蔵野日赤から立川災害センターに変わった。
どうやら武蔵野日赤の先生と喧嘩したか何かで
折り合いが悪かったらしい。
本人は2階建ての家で一人暮らし。
ケアマネージャーやヘルパーさんや訪問看護師さんから、
骨折の危険があるから1階にベッドを移そうと言われても
汚くなるから嫌だと
2階の寝室と1階のリビングの往復をやめようとしない。
シルバーボランティアの車に乗ったり
タクシーを使ったりして、度々外出。
ケアマネージャーから
「支援に行き詰っております。」などと
報告が来るようになった。
2018年12月13日
新しい主治医の先生がいる立川災害医療センターの
血液内科に私も同行。
抗がん剤治療はもう止める。
と告げられる。
これから徐々に体の自由が利かなくなるので
病院に入ることを検討した方がいいというアドバイスも。
事情があって主治医が変わったことを考慮してか
「来年になって具合が良くなれば、またここに来てください。
抗がん剤治療を再開しましょう」
などとも言う。
数種類の抗がん剤を順番に試してきたけれど、
最後のも効かなくなったと言ったばかりなのに。
本人が病状を理解していなくて無茶をするので困ると、
ケアマネージャーや訪問看護師さんから度々聞かされていた。
こんな言い方をしたら、また同じことの繰り返しだ。
つい、私は突っ込んでしまった。
「抗がん剤治療を再開する見込みはあるんですか?」
「そんなこと言ったら、本人が希望を持ってしまいますよ」
先生は言いにくそうに「再開の見込みはないです」と言った。
私の「余命はどれくらいですか?」の質問には
「だいたいあと半年」との答え。
倍ぐらいで言っているかなという印象だったけれど
(実際はそれから4カ月弱だった)
きちんと言っていただいて、私は良かったと思う。
2018年12月17日~
多発性骨髄腫で余命あと6ヶ月と言われた母の主治医を、
血液内科の先生から、ターミナルケアの先生に変更することになった。
その宣告から三日後、 母を除いた家族(娘である私と息子である弟とその奥さん)が、
ケアタウン小平クリニックの山崎章郎院長他全員の先生と面談。
患者抜きで話をすることが山崎先生の方針であることは、
事前に読んでいた本で知っていた。
山崎章郎先生は、 ホスピスや在宅ケアの分野の先駆者ともいえる、有名な人だ。
私も先生の著作は、母の発病の前から読んでいた。
そして幸運なことに母が住む家は、その山崎先生が作ったホスピスからも
その後山崎先生が作った在宅ケアのクリニックからも、大変近かった。
母自身は、在宅ケアよりも病院に入ることを望んでいた。
3食にベッドメーク付きで、暖房完備。そして時々遊びに出かける。
そんな生活を望む人だった。
それを告げると、クリニックが提携しているホスピスのリストを渡してくれた。
その日のうちに全てに電話。
入所応募の面談まで1、2ヶ月かかるところ
すぐ入れるけれど、1ヶ月しかいられないところなど、様々だった。
評判の良い桜町病院の聖ヨハネホスピスは既に見学の申し込みをしていたけれど
面談まで数ヶ月待ちと言われていた。
それから3ヶ月後に入れると連絡が来たけれど
もう動かせる状態ではなく、断った。
(入所できると言われたその日が命日となった)
家族が山崎先生との面談をしてからの10日間は
あまりにも早く過ぎたので、記録しておく。
12月17日 クリニックの先生達と家族が初めての面談
12月18日 クリニックの先生達が母を初めての訪問診察
12月19日 リストの中で一番早く入れそうだった、杉並の越川病院で私が面談
12月22日 前月11月7日に亡くなった父の五十日祭(仏教の四十九日みたいなもの)
12月26日 2回目の訪問診療。母のホスピス入所希望を確認し、手配の方法を丁寧に教わる
12月28日 母、越川病院のホスピス病棟の個室に入院
12月22日の父の五十日祭は母の主催で、親戚や古くからの友人を集めておこなった。
母は杖をついていたけれど、普段通りの外面の良さと見栄っ張りで出席者は何も気づかず、父の思い出話に花が咲く楽しい会となった。
父は「お金がない」という母の一言で、死ぬまで3年半も特養の四人部屋に入っていた。
それなのに、自分はホスピスの1日3万円の個室に入る。。。
あと半年だと思えば、そんな母にも腹が立たなかった。
ホスピスで母がどんな風に過ごしたか、後日書き足します。
そして、3か月以上という長期滞在の末、
2019年4月8日にホスピスで亡くなった。